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Author:fumiya
30代。独身。眼鏡。超短髪。あごひげ少々。映画館に通うのが趣味。コメントやトラックバックはお気軽に。

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Kinetic Vision
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シッコ
白血病にかかっている患者が、医者に骨髄移植を勧められる。死に怯えていた患者と家族にとって、それは希望の光だ。しかし、保険会社は支払いを拒否する。それは、高額の医療費を支払えない家族にとっては死刑宣告に等しい。患者の家族は何度も保険会社に支払いを求めるが、その間に患者は衰弱していく。患者が死ぬのを待っているかのように長引く不毛な交渉。そして、患者は死に至る。国の健康保険制度がすべての治療をカバーするわけではないが、その基準は一律であり、少なくともこのような非人間的な交渉が存在する余地はない。目の前に治癒の可能性が提示されているのに、そこに手が届かないというこの悲劇的な状況は、先進国の中で唯一国の健康保険制度を持たないアメリカで、頻繁に生じている。

マイケル・ムーアの演出方法には単純すぎると思えるところもある。諸悪の根源とされる悪役像が娯楽映画の悪役のように薄っぺらい存在として描かれる。前回はブッシュであり、今回はブッシュとニクソンだ。また、アメリカと比較される他国があまりにも理想的に描かれすぎていて、フィクションの中の理想郷のように現実感がない。

ただ、この映画が、テレビが報道しないアメリカの貧困と格差を写しだしていることは確かだ。治療費が払えない患者が、患者用の服装のまま、タクシーで貧民街に放り出される様子が、街の防犯カメラに写っている。保険会社の巨大なビルと、貧民街を幽霊のようにさまよう患者の姿、2つの世界の対比がアメリカの格差を写しだしている。

健康保険は、自分が健康なときには病気の「他人」のために保険料を払い続ける制度であり、年金は、自分が若いときに年をとった赤の「他人」のために年金料を払い続ける制度である。その代わり、自分が病気の時には保険のサポートを受け、自分が老人の時には年金のサポートを受ける。もう他人のために金を払うのはイヤだ、すべて「自己責任」だ、すべて民間でやればいい、という人たちが日本でも増えてくるのかもしれない。しかし、自己責任の原理が医療の現場にまで及んだとき、何が起こるのか、この映画は私たちに見せてくれる。

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マイケル・ムーア ツインパック 「華氏 911」×「ボーリング・フォー・コロバイン」 (初回限定生産)ドキュメンタリー映画 マイケル・ムーア

おすすめ平均
stars自虐的批判
starsダブリ?
stars■これを見なきゃ人間性が問われるよ■
stars最高!マイケル・ムーア

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遠くの空に消えた
自然に囲まれた馬酔村が空港建設予定地になり、村では反対運動が起こる。しかし、この映画は都会人が間違っていて村人たちが正しいというような単純な物語ではない。反対している村人たちは良心的な人たちばかりではない。

村は地主の天童(石橋連司)が牛耳っていて、小作人や村人との上下関係などの古びた制度がこの村には残っている。天童の娘サワコ先生(伊藤歩)も父が決めた相手と結婚しなければならない。若い村人をまとめている青年団のリーダートバ(田中哲司)も、異質な人間の存在を受け入れない村八分的な性質を親の世代から受け継いでいて、彼の狭量さが後半に悲劇を引き起こすことになる。主人公楠木亮介(神木隆之介)の父雄一郎(三浦友和)は空港公団の団長としてこの村にやってきた。彼は少年時代村から村八分にされた経験があり、この村を憎んでいる。異質な存在を排除するこの性質は子供たちにも受け継がれていて、反対運動から離脱した親の子供は学校でいじめられる。自然に囲まれたこの村は決して争いのない理想郷などではない。

一方で、村の良心といえる人たちもいる。亮介の友人となる土田公平の父信平(小日向文世)は生物学者であり、本当に村の自然を守りたいと思っている。妻スミ(鈴木砂羽)はあきれつつも夫を温かく見守っている。BAR花園のママ(大竹しのぶ)の元にはいろんな国籍の女性たちが集まっていて、ママは店の中での派閥争いを許さない。二人はかつて雄一郎を守ろうとしたことがある。彼らの良心的な性質は、亮介、亮介を友人として受け入れ、いじめを止めさせようとする公平(ささの友間)、UFOを信じる不思議な女の子ヒハル(大後寿々花)に受け継がれている。

父親が蒸発してどうやら村では浮いた存在であるらしいヒハルや、自由のない未来に絶望するサワコ先生、多くの鳩を飼い、弟を捜している赤星(長塚圭史)にとって、空は自由の象徴だ。一方で、空へのあこがれを押しつぶす力が村には働いている。鳩は殺され、ヒハルの秘密基地は壊される。しかし、空への通路は閉ざされてはいない。少年たちが満月の夜に躍動する麦畑やサワコ先生がスミス提督(チャン・チェン)を想ってたたずむ森の中の美しい湖は、きっと空に通じている。

だから空港は両義的な存在だ。一方でそれは美しい麦畑をつぶしてしまうが、他方で村人たちを土地に縛られた生活から解放するきっかけになりうる。空港と飛行機は文字通り空への通路だからだ。そして、亮平は空からこの村に戻ってくる、旧友たちと会うために。

遠くの空に消える前
遠くの空に消える前行定勲.神木隆之介.大後寿々花.ささの友間.三浦友和.大竹しのぶ 斉藤哲夫


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怪談
映画は豊志賀(黒木瞳)の死とお久(井上真央)殺しまでが前半、それ以降の新吉(尾上菊之助)の物語が後半になる。そして映画から感じられる緊張感が前半と後半でかなり違っているように思われる。

豊志賀と新吉の親たちの因縁話が講談で語られ、その後二人が通りで偶然出会う場面が出てくる。悲劇の予感と二人の俳優の色気が画面から伝わってきて、ぞくぞくさせられる。この後豊志賀の生活は破綻していくのだが、この狂恋と呼ぶにふさわしい豊志賀の執着や無意識にお久や周りの女性を引きつけてしまう新吉の魅力が、的確な演出や撮影で描かれている。豊志賀の死と、お久と新吉の関係の発展が平行して描かれていて、橋の下で新吉とお久が追い詰められていく場面も緊張感がある。ここまでは、豊志賀の激しい嫉妬心を感じ取ることができる。

後半になると新吉の生活が破綻していく様子が描かれていく。後半出てくる麻生久美子(お累)、瀬戸朝香(お賤)、前半から登場している木村多江(お園)も色っぽく写されていてすばらしいが、お久と違ってお累やお賤は豊志賀と直接面識はない。死んだ豊志賀は当然あまり画面に登場しなくなるし、彼女の執念を画面から感じ取るのが難しくなってくる。幽霊になった豊志賀は激しい嫉妬心を持つ「女性」なのか、人間性を持たなくなった「魔物」なのか、その区別がつかなくなってくる。子供にまで災いを及ぼし、ちんぴらを沼に引き込むという場面では女性というよりただの魔物になってしまっている。さらにそこにお久の幽霊が出てきたり、祟りとは直接関係なさそうな斬り合いで人がたくさん死んだりすると、誰が誰に祟っているのか分からなくなってくる。

次々と人が死んで悪魔的なものがおそってきてたくさん人が死ぬ現代のホラーと、幽霊になるまでの人間の情念を時間をかけて描く古典的な怪談は、両立するのが難しいものなのかもしれない。個人的には、この映画ですばらしかったのは情念を描いた部分だと思う。

怪談 真景 累ヶ淵より 豊志賀の死 [江戸怪奇夜話し 第1話]
怪談 真景 累ヶ淵より 豊志賀の死 [江戸怪奇夜話し 第1話]一龍斎貞水


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河童のクゥと夏休み
河童のクゥを追い込んでいくのは大物の悪役ではなく、平凡な一般人たちの小さな悪意だ。最初に出てくる侍にしても、小さな悪事が露見することを恐れる小心者だ。クゥとおっさんが街中を逃げ回るとき、彼らを追いつめていくのはカメラや携帯を持った一般人だ。彼らは自分がしていることが相手をいかに傷つけているか全く理解できないまま、野次馬根性で追いかけていき、彼らの生命を危険にさらす。普通のアニメの悪役と違い、この場面にでてくる野次馬一般人の顔を観客はおそらく思い出すことができない。東京タワーの前で黒い車でクゥたちを追いかけるバカ運転手の顔をはっきり覚えている人はあまりいないだろう。上原家の周りにいるマスコミ連中の顔もそうだ。つまり彼らは特徴のない、どこにでもいる人たちなのだ。最初はカワイイといいながら好奇心で近づいてきて、次の場面ではキモイ、危険だ、出ていけと叫んでいる。

このクゥのストーリーと平行して進むのが、康一の同級生菊池のストーリーだ。菊池へのクラスメイトの嫌がらせは、一般人の大人たちとよく似ている。警察沙汰になるほどの暴力は振るわないが、小さな嫌がらせを執拗に続けていく。この執拗さは、上原家の前で張っているマスコミや一般人たちの執拗さと同じだ。終盤、クゥと菊池が対面する場面は一見必要のない場面に思われるかもしれないが、2人はこの愚かな世界を共に生き延びた少数派だということを、観客はこの場面で確認する。

康一は最初少数派を傷つける多数派のほうに属している。クゥと関わり、孤立するものの気持ちを理解できるようになり、やがて仲間はずれにされている菊池のそばにいることを選ぶようになる。少数派でいるために必要なたくましさを彼はクゥから学ぶ。その象徴が相撲の場面だ。おっさんの前の飼い主のように傷つけられているだけでは、その怒りをさらに弱いものに向けることになる。この悪循環を断ち切るたくましさを、康一は最後に身につける。おそらく彼は二学期孤立することになるのかもしれないが、クゥが河童の生き方を最後まで貫くように、彼も周りに流されずに生きていくのだろう。この映画では龍の神様は河童を積極的に助けるわけではなく、いじめを大人が解決してくれるわけでもない。生き残るたくましさを身につけろという、明確なメッセージを、この映画は伝えている。

河童のクゥと夏休み 絵コンテ集
河童のクゥと夏休み 絵コンテ集原恵一


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